その端をふれてまわる
長い長い秋の雨がおそらくこれでようやく終わって、畑も乾いてきて、トラクターも入れるようになり、遅れを取り戻すべく必死で耕し、植えなければいけない苗を脇目もふらずに植えていき、あと今週さえ頑張れば一区切りになりそうで、さすれば白菜やキャベツやレタスなんかは力の限り植えたことになり、最後の白菜はちょっと間に合わないかもなぁ、と思いながらも植えていき、だけども暖冬具合によってはこれはこれでいいタイミングで葉がまいてきて、やっぱりあの時あきらめずに植えきっておいてよかったなぁ、みたいな会話を春先に、白菜の株元を包丁でザクザク切りながらわいわい交わすことになるかもしれず、数か月後には今この時の定植を感謝を込めて思い出していると思い描いた先のぼくたちに、思い出されているだろうぼくたちは、今日も明日も植え付けて、この小さな白菜の苗が陽と雨と少しの肥料で何十倍にもふくれた採れごろで、それをまさに収穫しながらぼくはきっとチェーホフの『学生』の一節を思い出しているんだろうと思います。
それは100年前に書かれたとても短い小説で、ロシアの田舎の一人の学生の、ある日の下校をただただ書いたといっていいくらい一見なんてことのないお話しです。
その学生は聖職者の勉強をする学校に通っていて、授業も終わりもう暗くなりかけの寒々しい田舎道を、父母が待つ貧しい村の貧しい家までとぼとぼ歩いて帰る道すがら、村はずれの小川のそばに暮らす未亡人母娘の家に立ち寄ります。そこで休憩がてら焚火に一緒にあたらせてもらい、暖をとりながら母娘にその日学校で習ったばかりの、キリストとその愛弟子ペテロとの「三度の否定」の話を聞かせてやって、自分が聞かせた話でこの母娘が意外にも涙するのを見て、こう思います。
『たったいま自分が話して聞かせた、千九百年むかしにあったことが、現代の、この二人の女に、そしてたぶんこの荒涼とした村に、彼自身に、すべての人に、なんらかのかかわりがあるのは明らかだった。・・・(中略)・・・過去は、と彼は考えた。次から次へと流れ出る事件のまぎれもない連鎖によって現在と結ばれている、と。そして彼には、自分はたった今その鎖の両端を見たのだ。一方の端に触れたら他の端が揺らいだのだ、という気がした。』
この話が書かれて百年以上たったぼくが、どこにでもありそうな郊外の、なんてことのない畑で白菜を植えながら、百年前チェーホフの書いた学生が今事のように千九百年前のペテロに触れた、ということをぼくも思い、そうとなればぼくだって、まぎれもない連鎖によって現在と結ばれている一方の端に触れたような気がしてならず、あの学生の通りなら、その端に触れたら他の端が揺らいでいるのも感じるはずで、なるほど今手元から離れ畑に植えられたての白菜の葉が、まさに少し揺らいだような気がしましたが、それはただ吹く風のせいだったのかもしれません。
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